Diary. 2014.May 12. Monday。
日記。2014年。5月12日。月曜日。深夜。
● 数日前にひさのさんから下記の東京新聞記事が送られてきた。
http://www.tokyo-np.co.jp/
ナチス独逸が波蘭を侵略する少し前だった。この記事にあらわれるポーランドの町ウオッヂはLogdと書くが、Lの上に斜線"/"がつく。そうすると、LがWと発音されるのだ。
その町は、首都ワルシャワ西南にあり、独逸による侵略以前は人口の大部分がユダヤ系で繁栄していた町だった。(僕は1996年に、ワルシャワを経てポーランド南部のカトヴィーチェ、アウシュヴィッツ、クラコウへの道すがら、この町を汽車で通り過ぎた。)
余談はさておき、当時シベリアを横断して、東に逃げた避難民には二組あった。
一組はウラヂヴォストックへ、もう一組は満洲里をへて大連経由で上海へ。少年だった僕には、何故二組だったかの理由は知らない。当時、英仏米諸国政府はこれら避難民の運命について、極端とも言えるほど冷淡だった。
だが、当時満洲に在住していた日本人知識階級の一部は陰に陽に救助の手を差し伸べた。大連から上海への船便獲得を受け持ったのは父の友人だった守髄一先生だった。子供だった僕自身、父と一緒に露西亜町の木賃宿に一人のユダヤ婦人を訪問した記憶がある。僕たちはエスペラントで会話した。
勿論、彼女は上海に消えた。東京のエスペラント学会を通じて小さな救援組織があったのだと、僕は思う。満洲里に避難民を受け入れるための米国籍ユダヤ人連絡員が二名いたことも確かだ。(上海にも一人居た。)
それ以上は、僕は知らない。
日本と独逸の違いは、日本には善意を持つ知識階級があったこと。無力にはなってしまったけれど。長谷川テルの子供たちを助けるために、第二次大戦後日本本土に出現したエスペラント学会を中心とした人々がそれをものがたる。