フィラデルフィア日記

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Diary. 2014.September 15. Monday.

日記。2014年。 9月15日。月曜日。僕達のアイルランド

●  ひさのさんからアイルランドの書籍がとどいたが、四国の松山城がある町からEmailがついた。そのあと、岡山県高粱町の松山城からもEmailが届いた。それで、すこしこんがらがったが、日本のお城の美しさに見とれた。

  アジア大陸の城は大きな町の人口の安全を保つために広い都市の周りの城壁が護り、城壁そのものには味も素っ気もない。どれも、単なる市城だ。

  一方、欧州の城はもともとが要塞で、軍事的な目的はあるにしろ、市民的な美的感覚は設計に考慮されていない。スコットランドやウエールスに比べて、イングランド内に於いて要塞城はまずない。旧来の「美しい要塞城」が見たかったら、ロンドンから汽車で西か北に赴くしかない。

  長ったらしくなるから書かないけど、日本の城は徳川治世四百年だかの経緯で、要塞の初めとそのあとの長い分藩封建治世の歴史をたどり、山城、平城、平山城などの種類を醸し出している。日本のお城ほど美麗な建築は世界中にないだろう。

● 杳子 (126.186.40.19)  (転載)

   トーマスさん、こんにちは。私は一度だけアイルランドに行ったことがあります。1995年の春に、新婚旅行で行きました。 当時の日本で新婚旅行といえばハワイとか、ヨーロッパならフランスやイタリアが多かったので、アイルランドだけに一週間滞在したというと、とても珍しがられたものです。 トーマスさんのなじみのある場所はどこですか?私たちはアイルランドの歌手•Enyaの曲を流しながらドライブしました。ダブリンでパブに行ってGuinessを飲みました。ケルトの遺跡や、漁師のための手編みセーターで有名なアラン島にも行きました。ごろごろした石を精妙に組み上げた塀で区切られた荒涼とした土地に、ジャガイモなんかが植えられていました。父親とイモ掘りしていた子供のほっぺは真っ赤で、恥ずかしそうに笑っていました。昔訪れた場所はどこも再訪したいですが、アイルランドもそのひとつです。

●  僕は生まれつき日本と朝鮮の狭間そだちです。どっちでもあり、どっちでもない。

   両親は関東大震災朝鮮族虐殺直後に東京で大学教育を受け、僕は震災五年後に東京で生まれました。大正民主主義風潮が消え始めたころ、僕の将来を気遣って、朝鮮語を話せないまま、僕は日本語と四歳のときから日本語と一緒に、エスペラント語で育てられました。だから、中学一年生のとき、英語を始めたものの、六ヵ月後で、エスペラントから移った英語会話は自由自在でした。そして、真珠湾事件になりました。

  親類がない僕は16歳のとき日本敗戦で、漂浪がはじまり、白人文化のなかで七十年全部を生活することを余儀なくされたから、親友たちの父母の欧州の故郷を知り、僕自身の故郷として「失敬」してきました。その一つがアイルランド(愛蘭)のバリハウニス Ballyhaunis です。

Shannon空港で降り、以北のGalway を経て、東北のTuamを過ぎたあと着くのが Ballyhaunisの町。ありふれた普通の地方町に過ぎないけど、あそこ三泊しました。

チャックの母ノーラが六十年前にフィラデルフィアに出稼ぎにやってきたまま、こちらで結婚して家庭を持ったあと、夫に死に別れ息子二人を育てて1990年に85歳で亡くなりました。その旅は、チャックのことを考えた僕の発想でもありました。彼の母の生存中、彼女の話を聴いては彼女の故郷の委細をノートしてありました。

チャックと一緒に世話してた僕の母も五年後の1995年に亡くなりました。二人で相談して、二人の遺骸はチャックの一家の墓に一緒に埋葬しました。

 Ballyhaunisを二人で訪ねたあと、愛蘭西端にある Achill島に行き、Kreel

に安宿(一日12ポンド)をとって二週間過ごしました。

僕たちは一場所に落ち着いて一週間か二週間その村か町を堪能してすごすのが好きです。 

その地の友人もできますし。Achill島は単なる愛蘭田舎の島。島の町、キールは楽しかった。友人もずいぶん作りました。よかったら、貴方もご夫君と行ってごらんなさい。     

 隠居してから、決められていて、年金貯金の一部分は法的に僕に毎年6000ドルが払い戻されました。その全額を毎夏使って欧州を二人で旅したのです。

あの時期に二人で欧州巡りをしておいて良かったとつくづく思います。

85歳を過ぎたいまでは、考えられもしないから。

ギネスも知ったわけですね。黒ビールは僕も味を覚えて、毎日一缶飲みます。