フィラデルフィア日記

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Diary. 2014. September 29. Monday. 日記。2014年。9月29日。月曜日。

日記。2014年。9月29日。月曜日。

今、日曜日の午後2時。音もなく日曜日が過ぎ去りつつある。

● この日記の記載時刻は妙だ。なぜなら今日がそちらの明日で、事実明日が今日なのだから。それに、此の日記はあくまでも、無名老人の日記。たいしたことが載るはずがない。日本語を忘れたくないから書いてるだけ。

愚痴ばかり書くが、七十年前の昔大連界隈で売り飛ばされたあの兄妹二人、(今生きてたら80歳を越えただろうに)を忘れられないでいる老人馬鹿が僕。

せめてあのとき、二人を背負ってアメリカに逃げて来れてたらなと思う。

● 午後3時にチャックが帰宅。すぐに二人でヴィラノーヴァのジェフィイ宅訪問。夕食に招かれてたから。ジェフィイは永年の友達。十数年前に夫君と死別し、僕とはブリンモアの病院体操で一緒になった。何処の国、何処の文化でも夫に死に別れた女性は普通引篭りがちになるのが普通。

  フィラデルフィア旧家出身のジェフィイはそのまるはんたい。国務省や東方大学と連絡をとって、訪米や留学してきて国務省がもてあます人々(英語が操れない、新来、知人がないお客さんたちが殆ど)を引き受けては、親身になって世話して暮らしだした。

  十五年前ごろには、たとえば日本からの客で日本語しか話せない小団体が随分居た。フィラデルフィアに会議や研修に彼らが来ても、電車一つ使えない、昼飯にレストラントに這入っても、電話も使えない人が大分居た。それも、二週間単位で。

そのおうなお客さんの寝食世話を一週間、二週間引き受けたわけ。しかも、フィラデルフィアでは最高級の住宅地で。

  効果は覿面だった。露西亜、シベリア、日本から始まってアフリカからの訪問客が国務省からジェフィイ宅をこのほぼ二十年通過して行った。勿論時期によってお客さんの国籍がかわりうつる。チャックや僕が引っ張り出されたのは、僕が日本語を操れるからだ。(僕は十五年前、七十歳だった。)

  結果として、十五年前、僕は無数の日本人、露西亜人、韃靼人、シベリア各地の少数民族の知り合いができた。ソ連邦雪解けだったあのころは、あの地帯からの訪問客が多かったから。おまけに、ジェフィイの献身的な世話に感激したシベリアからの訪問客はあのころ毎夏彼女をシベリアに招待してくれていて、彼女は毎夏シベリアを訪問していた。しかも招いてくれた人々はシベリア各地の小都市では名が知れた人々ばかり。

  僕に韃靼共和国の友人が多いのにはそんな経緯がある。それに、少年時代僕は白系露西亜人やユダヤ人少年とあの戦争時期に育った。

  さて、今夜の訪問で、ジェフィイの世話相手が今度はアジアからアフリカに移ったのを知った。彼女はマラウイやモザンビクから戻ったばかり。しかも、現在72歳の年齢で。うかつながら、僕はマラウイがアフリカの何処にあるのかも知らなかった。ジェフィイを招待してくれたのは、大分前にこちらの大学に留学して、数年世話になった学生さん。今では、マラウイ国立大学の学長になってるらしい。

国賓あつかいだったようだ。しかも、現地家庭に寝泊りしている。(忘れないうちに記しておくが、ジェフィイの文化背景は純米国南部上流だ。)’

  アフリカ報告に花が咲いた。